寺田精之先生の思い出

 

27歳秋、英会話クラス出席のため訪れた横浜YMCAで、寺田精之先生(当時47歳)の合気道に出会いました。終了後ロビーで寺田精之、松尾忠敬両先生にご挨拶した際、寺田先生の発言、風貌、雰囲気に魅せられ、その場で門下生に加えていただきました。

 

外資系会社に勤めていた私は仕事が終わるとすぐYMCAに行くのが常でした。時々寺田先生とレストランでご一緒することがありました。最初の時、寺田先生が「カレーライス三つ」と注文されるのを勘違いして、「私はひとつで結構です」と遠慮したら「私がふたつ食べるんだ」。米軍横須賀基地によくお供しましたが、必ず基地門前の蕎麦屋で3人前注文して、それぞれ腹ごしらえをしてから入ったことが思い出されます。

相撲がお好きな先生は、合宿で弟子たちに相撲を取らせることがありました。社会人は弱すぎると思っておられた(拓大合宿では、ご自身が相手をされたと聞き及んでいます)のか先生は見ておられるだけでした。  つまらんなーと思っていたのではないでしょうか。また騎馬戦をよくやらされました。長身の私は常に前馬で、両手は使えず体当たり位しか出来ないので欲求不満、あまり面白い思い出はありません。

 

27歳冬の忘年会のことでした。寺田先生をご自宅に送るタクシーに入澤千津子と私に同乗するよう、平石潔指導員が声をかけてくれました。それがきっかけで、言葉を交わしたことも無かった2人に接点ができ、それから43年(山あり谷あり、いろいろありましたが)続いています。平石さん!ありがとう!私は幸せにもよく誤解されました。たとえば寺田先生は「君のような温厚な人間がキレるんだから、それは相手が悪い!」、いえ私も十二分に悪い、、、言わなかったけれど、、、。こんなこと言われたら、二度と同じ過ちは繰り返すことなどできません。寺田先生は究極の教育者だったんではなかろうか、と考える今日この頃です。現在私は当時の先生の年齢を20歳も上回っていますが、とても言えません、、、、。

明治神宮至誠館名誉館長田中茂穂先生が、寺田先生の思い出として「寺田さんは仏のような、と言われた」と記されていますが、むべなるかなと思います。 

 

海外セミナーにお供するようになって私の合気道は変わりました。それは先生のお傍に控えていると「技をかけてくれ」と腕試しをする方が出てくるからです。相手はセミナーで訪れる大勢の先生方を相手に抵抗してきた経験があり、自分に通用しなければ誇りに思い、うまく掛けられればそのコツを身につけたい と思っているのでしょう。力ではもちろんうまくゆきません。いかに崩すか工夫するしかありませんがこれが難しい。すぐに、その場で、先生が見ている前で結果を出さなければならないという状況が私の合気道を変化させました。たびたび、寺田先生に「考えなさい、工夫しなさい」と言われてきて、ない智慧を絞る癖がついていたのがそんな時、役立ったようです。そのように変わってきた合気道を仲間と共に稽古するのが、現在の私の最大の楽しみです。



松尾正純

 


昭和58年、精晟会あざみ野を松尾正純が立ち上げましたが、私は出産・子育てで十年間のブランクがあり、その上まだ初段のままで、これから初心者を相手にどのように稽古を進めていいのか分からず、まるで霧の中を歩いているような状態でした。特に松尾が居なくて留守を預かる時は心細く、道場に行く前にイメージトレーニングをしてから出かけたものです。

心の中は常に不安で一杯でしたが、いつも励まし助言をしてくださったのが寺田先生です。「古くからやっている貴女だから、自信を持ってやりなさい」と言われると頑張らなくてはという気持ちになります。

 

寺田精之先生には横浜YMCAで合気道の稽古風景を見て、これだとひらめきを感じ、早速入門し、その稽古でお会いしました。まだ四十代で若々しく、情熱に溢れて、養神館合気道の魅力と奥深さを教えて下さいました。

 

海外からの要請により、寺田先生に従って、カナダ・ロシア・イギリス等様々な国での指導も多く行なわせていただきました。彼の地での会員の方々の熱意には心打たれます。正座法・礼法も日本人より礼儀正しく、道場の雰囲気は厳粛そのもので、ぴーんと張りつめています。

日本からわざわざ高名な寺田先生がいらした、この機会を逃さず教えを受けよう。出来るだけ技を覚えようという真剣な態度に感銘を受けます。

寺田先生の教えられた合気道は、日本国内だけではなく、いまも彼の地で息づいています。

 

 

松尾千津子

 

 

 

 

稽古においての寺田先生は基本動作を大事にしていました。指導者合宿の時にも、必ず最初は基本動作からでした。技においては、受けが技がかかる前に受けを取るような行動を言葉には出さないが嫌っていて、その様な受けが受けを取るとすぐに交代という事は有りました。演武においては色々な技を出していました。呼吸投げを多様するのではなく技を披露するという感じで演武をされていました。 柔道の技にある巴投げを演武大会で私が行っても良いかと相談した事が有りましたが、それは遠慮するようにとの答えでした。合気道なので合気道の技を基本の技を演武するようにとの事でした。 

 

 

星裕二

 

 

 

 

寺田先生は、清廉潔白でまた名誉や名声を求めることもなく、静かにそして淡々と養神館合気道を世界に広めて来られた先生でありました。そのお姿を、2002年より約十年間にわたり寺田先生の海外ご遠征の手配のため、海外担当として養神館海外関係道場との折衝・連絡を行った立場から、述べさせて頂きます。

 

寺田先生が海外指導を本格的に始められたのは、1997年のカナダ・ジョージタウン(正道館道場:フレッド・へインズ先生)への遠征からでありました。その後海外でのご指導を2007年まで続けられ、カナダ・ロンドン市(アッシュレイ・ヘネシー先生の道場)への遠征が寺田先生の最後の海外指導の記録となりました。その間、ご指導された海外都市は、上記の他に、カナダ:ウインザー・バンクーバー・トロント、オーストラリア:メルボルン、ブラジル:サンパウロ、アメリカ:ラグナビーチ・デトロイト、イギリス:ポーツマス、フランス:オルレアン、ドイツ:ミュンヘン、ポーランド:クラコフ・ザブジェ、ロシア:サンクトペテルブルグ、ウクライナ:リボフなどであり、アメリカ、カナダ、ロシア、ポーランドにおいては、複数回の指導をされました。 

寺田先生が海外指導を始められてから、受け入れ側の多くの海外道場は、経済的に余裕なく、飛行機代の他に宿泊代を負担するだけで精一杯の状態で、いくつかの海外道場は先ず飛行機代を全て負担することも出来ない状況でした。受け入れ側のそのような状況の中での海外遠征は、寺田先生に大きな経済的負担をおかけしたと思います。

やがて、寺田先生の人を包み込むようなお人柄によるご指導方法が、先生のセミナーへの参加数を増やし、養神館合気道を学ぼうとする海外合気道家の数が、回を重ねるごとに増えて行きました。

清貧に甘んじ、栄誉を求めないその寺田先生のお姿に敬愛の念を抱いたのが、海外の指導者やセミナー参加者達であることを、寺田先生のご遠征のお手伝いをした筆者が、海外とのコミュニケーションを通して肌で感じ取っておりました。今日の養神館合気道の海外における普及と発展は、まさに寺田先生のおかげによるものが多大であると実感しております。

2009年に他界された寺田先生に対し、海外から多くの弔電が押し寄せるように届けられ、先生を敬愛する多くの海外指導者達のお悔やみの言葉が、その深い惜別の情と共に述べられております。先生のお旅立ちはまだ昨日のように思われ、先生の教えを受けた人々や先生と一期一会の機会を得た人々の胸の中に、そのお姿がいつまで残って行くことでしょう。我々の師寺田精之範士は、そのような偉大な先生であります。

 

 

石黒行雄

 

 


準備中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Evgeny Shimanovich

 

 


準備中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sebastian Sliwinski

 

 


準備中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇都宮正敏

 

 


画像:養神館合気道 精晟会ロゴマーク
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