寺田精之先生

寺田精之範士
故 寺田精之範士

1922年長崎県に生まれる。1946年拓殖大学卒業。1951年合気会道場に入門。

養神館本部道場師範、最高師範、最高顧問を歴任。

横浜市合気道連盟会長として合気道の普及に力を尽くし、またアメリカ、カナダ、ブラジル、オーストラリア、ロシア、フランス、イギリス等海外での普及活動も精力的にこなす。

また、拓殖大学合気道部師範、京都産業大学、沼津工業高専、沼津西高、東洋英和女学院大学、フランス日立、NKK、リコー沼津、横浜市役所、YMCA、米軍横須賀基地、精晟会の各道場などで指導・普及に努める。

 

2008年、最高段位である十段を贈られ、長年のご功労に対し養神館より感謝状を贈呈された。

2009年7月13日御逝去

 

精晟会10周年記念式典での、寺田先生の演武

イギリスでのセミナー

『戦後合気道・群雄伝〝世界の合気道〟を創った男たち』/加来耕三 著

より抜粋

 

戦後合気道・群雄伝

養神館道場の設立時、塩田剛三を助けた功労者の一人に寺田精之がいる。

のち、養神館最高師範になるこの人物は、武道家にありがちな偏見、近視眼的なものの見方が皆無ともいえる希有な人で、実に武人らしい風貌とともに、冷静沈着な客観性をつねに持していた。

 

私事で恐縮だが、昭和五十一年、筆者は寺田の著した『図解合気道入門』(文研出版)を購入したことがあった。

合気道の技法を写真入りでわかりやすく解説した本で、この本の最後には「合気道道場案内」が一ページもうけられていた。

当然、「財団法人合気道養神館道場 塩田剛三」の住所と電話番号が一番上に記載されていた。筆者が驚いたのは、横書きの連絡先を見て行くと五つ目に「財団法人合気会合気道本部道場 植芝吉祥丸」が載っていたことであった。

いわばライバル関係にあるにもかかわらず、寺田は合気会本部道場のみならず、合気会の支部道場数カ所を明記していた。

なかなかできることではない。

この人のいうことなら、うそや脚色はあるまい、と思う。

寺田が「合気ニュース」のインタビューに答えた中に、塩田と拓殖大学の先輩・後輩の関係にあること、自身は柔道、空手、相撲などに造詣があることなどが、謙虚にふれられていた。

さらには、戦後、昭和二十四年頃に上京し、二年後に若松町の合気会に入門したことが語られていた。寺田は二十八、九歳であったという。

 

 

(C)出版芸術社

http://www.spng.jp/sab_budou/sengoaikidou.html

 

 

 

 

 

寺田精之という生き方

月刊『秘伝』2000年8月号より抜粋

 

 

大正十一年(1922)三月二十日長崎県の島原半島で、合気道養神館・寺田精之最高師範は生まれた。七人兄弟の下から二番目。男兄弟は二人だけだった。兄は真面目で勉強熱心。

対して、寺田師範は、相当の”悪ガキ”であったという。貧しい時代であったが、寺田家は裕福だった。当時、皆の憧れだった白米を食べることは日常だったという、

 

武道に対しては、子供の頃から興味があり、自分でもやりたいと思っていた。

 

『小さな頃から、柔道、相撲、空手など武道が好きでした。

とにかく柔道をやりたかったですね。豪快な投げ技などに憧れていました』

 

しかし父の反対もあり、結局は中学校の正課で剣道を選択することになった。中学三年まで剣道をやり、柔道の校内大会で柔道部の人間を六人抜いて先生から柔道部に引き抜かれ、先生の道場に居住して内弟子となった。

 

『拓殖大学に入学して、空手部に入ったのも、今の若い人たちと同じように強さに対する憧れのようなものがあったんでしょう。今、考えれば別に大したことではないんですが、空手というのは瓦を手で砕いたり、すごい破壊力があるといわれていたので… 巻藁を突いている拳から血しぶきが飛んでいるのを見て、空手部に入ることにしました』

 

だが、拓大の先輩が学生運動に参加していたこともあり、寺田師範も行動をともにする、その結果、空手部は辞めざるを得なくなってしまった。学徒出陣で招集され、寺田師範は飛行機の整備についた。

 

『戦況が激しくなって、戦闘機グラマンが飛んできて飛行場を逃げたこともあります。頭上まできて機関銃を撃たれ、伏せていたすぐ横の地面を弾が射抜くのが見えたくらいでした。当たらなかったのは、運が良かったんでしょうね。』

 

実際、畑仕事をしていた女の人が二人(被弾して)倒れるのを目の前で見たこともあった。戦争体験-言葉にするのは簡単だが、その体験たるや、想像を絶する苦悩に満ちたものとして、後の人生に影響を及ぼすことは間違いない。

 

『合気道の目的とは、和と愛です。それなくして、合気道の神髄は語れません』

 

寺田師範の合気道に対する真摯な思い、戦争体験者から発せられる、『和と愛』の言葉の重み。決して軽んじてはならない。我々戦争未体験者に与えられた、大いなる使命ではないだろうか。

 

合気道との出会い

 

昭和二十四年、寺田師範は再度、上京する。二年後、当時、新宿の若松町にあった合気会へ入門。寺田師範、二十八歳の時である。合気道をやろうと思ったきっかけについて師範はこう語る。

 

『元々、やりたいと思っていたのですよ。それまでは、剣道、柔道、相撲とやってきましたので、体力には自信はありました。拓大に入って、志道塾という寮に入り、そこで塩田館長と出会いました』

 

養神館の塩田館長は拓大時代の先輩にあたる。塩田館長は合気道の植芝盛平開祖のもとで修行されていた。

当時、中心となって教えてもらったのは若先生、すなわち植芝吉祥丸先生で、たまに茨城県の岩間から植芝開祖もこられたという。

 

『その頃の合気会の稽古生は少なかったですね。朝稽古と夜稽古がありましたが、朝は一人もいない時がありました。しかし一人でも吉祥丸先生は稽古をして下さいましたね。ありがたいことでした』

 

植芝開祖は、常時、茨城県の岩間の道場におられたが、時々、若松町の道場にも、講習会のために来られることがあった。寺田師範も何度か、直接指導していただいたという。

 

『植芝大先生は、それほどごつい方ではありませんでした。柔和で、いいお爺さんという感じですね。手も柔らかい。ぐっと力を入れれば鉄棒のようでしたが…』

 

柔道・木村政彦氏、合気道・植芝盛平氏、塩田剛三館長、そして空手の中山正敏氏、大山倍達氏、いずれも武道界においてその名を後世に残す達人たち。その方々と会い、そして言葉を交わした。寺田師範の壮大な運命を感じられずにはいられない。

 

 

 

(C)月刊『秘伝』

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画像:養神館合気道 精晟会ロゴマーク
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