合気道の歴史

寺田精之範士著『図解合気道入門』より抜粋 

 

 

合気道は、不世出の天才武芸家植芝盛平先生が、日本古来の各流各派の武術の精髄をとり入れて、それに先生独自の工夫を加えて近代武道として集大成されたものである。

 

その根幹には、「大東流合気術」があるといわれている。

 

大東流合気術は、第56代清和天皇の第六皇子、貞純(さだずみ)親王が創始者といわれ、親王の長子で清和源氏の祖である経基(つねもと)、満仲(みつなか)、頼信(よりのぶ)、頼義(よりよし)に受けつがれ、頼義の第三子の義光が合気術の基礎を作ったといわれている。義光は、八幡太郎義家の弟で、世に新羅(しんら)三郎義光といわれ、かなりかわった人物であったらしい。

 

義光が基本を作ったといわれる合気術は、その第二子義清に引き継がれた。義清は甲斐の国武田(北巨摩郡武田村)に住み、甲斐源氏の祖武田氏となった。以来、合気術は、武田家秘伝の武芸として、代々子孫に伝えられていった。

 

「大東流合気術」という名称は、武田家の遺臣大東久之助の名にちなんでいるといわれている。

 

合気術は、世に知られぬ門外不出の極秘技であったが、明治になって、武田家の末孫、武田惣角(そうかく)先生が、はじめて一般に公開し、ようやく世に知られるようになった。惣角先生は、全国を旅から旅へと巡遊して、逸材を見い出しては、個人指導された。

 

そのころ、植芝盛平先生は、勇踊、北海道開拓事業のため、北海道紋別(もんべつ)に渡った。時は明治43年、日露戦争の直後であった。ここではからずとも、大東流合気術師範武田惣角先生とめぐり会い、その指南を得て免許を得たのである。

 

植芝盛平先生は、明治16年に和歌山県に生まれ、もの心ついたころから、武芸家たらんと志したといわれている。幼くして、すでに天稟(てんひん)の才に恵まれた盛平先生が、惣角先生に会われたとき、まだ20代後半の最も屈強さかんな時代であり、そのころにはすでに、神陰流、相生流、大東流、柳生流の各柔術、それに宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)修行をされて、武芸家としても一家をなす人であった。

 

名人は名人を知るという、偉大な惣角先生は、盛平先生の非凡な不世出の大器を見抜かれたに違いない。以後、植芝盛平先生は、種々の求道辛酸の道を経て、一大開眼され、現代のの武道、合気道を確立されたのである。

 

武田惣角先生は、昭和18年に北海道で86歳で逝去(せいきょ)された。現在その御子息の武田時宗先生が、北海道網走(あばしり)で「大東館道場」を開き、大東流合気道第26代宗家として、伝統ある大東流合気武道の普及にあたっていられる。

 

植芝先生の演武は、徒手の場合は、実にやわらかくおだやかで、それでいてその強さは神秘的なほどであったし、武器を使われる時の速さは、神技としかいいようがないほどであった。平素の先生は人生の辛酸をなめてきた人とは思われない温かい人柄で、声も非常にやさしかった。

 

 

 

画像:養神館合気道 精晟会ロゴマーク
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